カロン

沿革

1948

井上干城が花園商店街(現ニューオータニ博多)にあった弟の洋装店を引き継ぐ その後、中央区清川に移転し井上服装工房を開店

1973

西伯利亜毛皮店の代理店として毛皮の販売を手掛ける

1980

南区高宮に移転   株式会社カロン設立 

1986

井上広之真が社長に就任 
カロン貿易株式会社に社名変更
毛皮・レザーの輸入を開始

2000

毛皮・レザーオリジナル製品の生産開始

2015

オートクチュールを再開 
同時に紳士服オーダーもスタート

2017

ハイアットリージェンシーにて
70周年記念パーティー&ファッションショーを開催

2021

中央区笹丘に新サロンオープン

 

ザイナーと呼ばれた父


激動の時代の中で

先代井上干城は1920年現在の福岡市西区で生まれた。
家から片道20キロの農業高校に自転車で通い、芸術系の学校に進学を希望するが、家業が農家なので必要ないと許してもらえなかった。

その後太平洋戦争で満州に出征。激戦を生き抜き、負傷して帰国。終戦後は九州電力に入社した。
しかし1948年、病に倒れた弟の洋服店(花園商店街 現在はホテルニューオータニ博多が建っている)を引き継ぐことになり、これが干城の人生のその後を決定づける。
 

 

服飾デザイナーとして

店はほどなく中央区清川1丁目に移転し、「井上服装工房」の名称で営業開始。紳士婦人のオーダー服やキャバレーの制服を手掛けた。
当時はまだ“服飾デザイナー”と言う概念はなかったが、やがてディオール、シャネルと言ったヨーロッパの服飾が紹介され、その概念は浸透していく。そしてそんな中「NDC」日本デザイナークラブが設立される。干城はこのムーブメントの必要性をいち早く感じ取り、九州支部の設立に向け奔走。クラブは西日本新聞社に事務局を構え、九州沖縄地区のオートクチュールデザイナーの多くが参加するほどに成長した。
 

 


 

その頃小学生だったけど、家には住み込みの縫子さんが何人もいて、みんなで食事して、テレビを見て、とても賑やかでした。
年に2回NDCの大きなファッションショーがあって、仮縫いに来ていた綺麗なモデルさんたちによく遊んでもらっていました。(井上広之真)

デザイナーの地位の確立

干城は自身のスキルを磨くために、パリに渡りデザイン学校で学び、ヨーロッパ各国を回っては、最先端のモードの見聞を深めた。
そんな干城の活動は、テレビ局も知るところとなり、当時、KBCテレビの「ティータイムショー」では「おしゃれ診断」や「おくさま変身」と言った企画番組で、アドバイザーとして長く番組に出演・貢献した。
やがて日本人デザイナーは海外でも評価されるようになり、まさに干城は、日本ファッション界の黎明期に活躍したと言える。

 


 

ビデオが無かった時代なので録画が無くて残念です。
これらの番組企画は今でもやってますし、
本当にアイデアとバイタリティーに溢れた人だったと思いますね。
(井上広之真)

井上干城

井上干城、出征

井上服装工房

井上服装工房から進展を始める

井上干城

日本デザイナークラブ 九州支部設立のために奔走

井上干城

パリ研修で講義を行う

 

井上広之真により時代へ


毛皮に出会う

干城が毛皮のデザインを手伝った縁から、帝国ホテルの老舗・西伯利亜毛皮店の九州総代理店として、毛皮の販売を手がけることとなる。
当時の販売は毛皮店のスタッフと一緒にキャラバンで地方の街を回り、展示会販売を開催するものであった。
店舗も福岡市南区高宮に移転。
1980年に株式会社カロンを設立する。

高校生の頃アルバイトで展示会販売によく同行していました。
オタク体質なので、素材のことはひと通り覚え、
ミンクのコートだけを見て、雄か雌かを見分けたりするような子でしたね。
(井上広之真)

直輸入業務を開始

1986年、干城に代わり、息子の井上広之真が代表取締役に就任した。
西伯利亜毛皮店の代理店契約を終了し、海外からの毛皮製品とレザーの直輸入を開始。
同時にカロン貿易へと社名も変更する。
当時は毛皮ビジネスの全盛期で、フランクフルトを始めミラノ、パリ、香港と大きな国際見本市が開催されていて、それらを回って製品を買い付けて輸入していた。
しかし見本市では他の日本人バイヤーと競合することも少なくない。
差別化する為にオンリーワンの商品の必要性を感じ、カロン独自のオリジナル製品を企画するようになる。
 

カロン

元来あまのじゃくで人と同じが嫌で始めたオリジナルですが、とにかく大変で苦労と失敗の連続でした。
生産となると専門用語だらけ。一から勉強しようと専門学校に行くんですが忙しすぎて挫折。
もうやりながら覚えて行くしかないなと、本当にがむしゃらでした。(井上広之真)

オンリーワンのものづくり

オリジナルの生産には多大な労力を必要としたが、「ものづくり」における良し悪しを見抜く力をつけたことはカロンの大きな財産になったと言える。
長年の経験で素材に対する知見は充分にあったが、生産における高い技術の必要性を認識することとなった。
そして外注工場のクオリティに満足できなくなったことから、自社生産を始めることになったのである。
だがやがて、毛皮を取り巻く環境は変わり、カロンは大きく舵を切ることとなる。

 

 

ートクチュールへの回帰


僕のカロンでのスタートは毛皮ビジネスなので、深い思い入れがあります。
しかし毛皮に対して逆風が吹くようになりました。

品種改良された養殖物の毛皮は、天然物よりはるかに美しいんです。
それは人の英知と努力が生み出した文化だと思っています。
しかし社会の潮流とフェイクファーの進化の中でもう主流にはなり得ない。
これはだいぶ前から感じていましたね。
(井上広之真)

技術に魅せられる

時代が変わりつつある中、スタッフ・デザイナー相(アイ)の母、相千栄子の協力でオートクチュール展を開催した事が大きな転機となる。
オートクチュールの為に用意された様々な生地の美しさ。
平面の生地が立体になり、それを身体にフィットさせる魔術のような技。
それに魅せられた広之真は、婦人服のオーダーと言う42年ぶりの原点回帰を決意するのである。
レザー毛皮製品の卸売業から顧客相手の洋服作りは大きな業態転換であったが、長年培って来た経験からものづくりに必要な要素は熟知していた。
特にオートクチュールでは、1着毎に製作するパターン(型紙)は重要であり、外注ではどうしても満足いかず、広之真自らが手掛けていく。

 

モデリストの技術を身に付けるために本気で勉強しました。マンツーマンで教えていただいた竹内先生には感謝しかありません。
飛躍の機会を得たのは、2018年、カロン 70周年パーティーでのファッションショーの開催です。
相がデザインし、僕がすべてのパターンを製作。
おかげ様で、お客様から高評価をいただくことができ、この体験は大きな自信になりましたね。
オートクチュールを再開して以来、優に300着を超える洋服のパターンを手掛けることとなりました。(井上広之真)

理想の空間を求めて

広之真は、「オートクチュールはエンターテイメント」と捉え、それにふさわしい新サロンの建設を決断する。
100坪の敷地にパーティーが開催できるブティックとガーデン、オートクチュール専用サロンとアトリエ、駐車場を各フロアに備えた建物である。
デザインと設計、施工管理まですべて広之真自ら行った。
オーダー店のほとんどが廃業していく中で、これは大きなチャレンジであったが、自社のためであると同時に、業界の為にも必要な存在でありたいとの強い思いから実現させたのである。
先代の時代から清川で30年、高宮で40年。
そして2022年、この笹丘でカロンは創業100周年に向け、新たな歴史を刻み始めた。